LOGIN「……あのね、お母さん。その女が原因で、私は成南を辞めることになったの。実は彼氏に二股かけられてさ、その相手が広岡怜っていう受付嬢だったんだよね」
私は母に、ことの経緯を話した。バーで水をぶっかけた時に、芹澤ホールディングスの御曹司に巻き添えを食わせてしまったことは言わずにいたけれど……。
『二股!? って、あの翔太くんが? あの子、そんなことするような子には見えなかったのにねぇ……。広岡さんっていう子だっていい子そうだったし』
翔太のことは母も知っていただけに、かなりショックを受けているようだ。「翔太くんが藍のお婿さんになってくれたら~」なんて盛り上がっていたこともあったから、彼の裏切りはショックが大きいだろう。
「あいつら、外ヅラだけはいいけど中身はカッスカスだよ。だから平気で二股なんかかけられるのよ。しまいにはあいつ、何て言ったと思う? 私の方が自分より仕事もできるし給料もいいから、付き合ってたら自分のプライドがズタズタになったって! だからってさ、他の女と二股かけていい理由にならないと思わない? 浮気だけでも許せないのにさぁ」
話しているうちにだんだんエキサイトしてきて、私は思わずスマホを持っていない左手で座卓をバンバン叩いていた。
『分かるわよ、藍。あんたの言ってることは間違ってない! お母さんだって、あんたとおんなじ立場だったら絶対に怒ってるわよ。そりゃ、元カレとその二股相手の子と同じ会社にはいたくないわよねぇ。まぁ、それまでのあんたの輝かしいキャリアを捨ててまたイチからっていうのはもったいない気もするけど。それでも藍はその会社にいたくなくなったんでしょ?』
「うん。仕事のキャリアなら、また新しい会社でイチから積み直せばいいから。今度受ける会社では、副社長の第二秘書に応募するの。でもただの秘書じゃなくて、秘書課長候補になるんだって。新鮮な気持ちで心機一転頑張るつもりだから。それにね」
『……それに?』
「そういうことよりも、私は第一に自分のメンタルを守りたかったの。いくらいい仕事をしてキャリアを積み重ねても、自分のメンタルがボロボロになったら意味がないじゃない? 人間だもん、感情ってものがあるわけだし」
『それはそうよね。ロボットやAIじゃないんだから。働くうえで人間関係って大事よね』
電話の向こうで母もうんうんと頷いている。これで、私が会社を辞めることを納得してくれただろうか? 今の今まで黙っていたことは申し訳ないと思っているけれど……。
「週明けの月曜日に採用面接を受けてくるから。今度受ける会社は芹澤ホールディングスだよ。お給料も成南より高くなるし、待遇もいいらしいの。実はね、そこの副社長さんが直々に声をかけて下さって。受けることに決めたの」
『あら! 芹澤の副社長っていったら、あのイケメンのご子息でしょう? あんたもとんだ大物を釣り上げちゃったもんだわねぇ。もしかして、ここから恋愛に発展しちゃったりしないかしら?』
「…………お母さん、言い方」
母の品のなさすぎる言い方に、私は唖然となった。「釣り上げた」って、釣りをやっているわけじゃあるまいし。
『ああ、ごめんね藍。……でも、そのご子息直々に目をかけて頂いたことは事実でしょう? だったらあんたもその期待に応えて、面接にはぜひ受からないと。大丈夫! 藍なら受かるわよ。何せお母さんの自慢の娘なんだからね!』
「……うん。お母さん、ありがとね」
私は父と母の一人娘なので、子供の頃から何かと期待をかけられてきた。でも、それが重いプレッシャーだと感じたことは一度もない。私のことを愛してくれているからこそ期待もしてくれているのを理解していて、それに応えようと努力してきたから。
今回のことも、悠巳さんも母も私に期待してくれているからこそ、この採用面接には絶対に受かりたいと自分でも思っていた。
* * * *
――こうして書類や想定問答などの準備を着々と整え、私は芹澤ホールディングスでの採用面接当日を迎えた。
「大丈夫よ、藍。あんたなら絶対にできる! きっとうまく行くから、自分を信じよう!」
朝、五年ぶりに着るリクルートスーツに袖を通しながら、私は自分にそう言い聞かせた。……大丈夫! 私は絶対に、悠巳さんを失望させるようなことにはならないから。自分を信じて胸を張って
つまり池崎さんの言い方では、仕事とプライベートのメリハリさえきちんとつけていれば秘書とも恋愛関係になり得る、ということか。私もまだ希望を持っていていいということなのかな……。「そもそも、副社長が直々に声をかけて新しい人を連れてきたことなんて初めてなんだもの。……ああ、ごめんなさい。こんな言い方は語弊があるわよね」「え、そうなんですか?」「ええ。だから副社長がこういうイレギュラーな行動に出たのも、あなたのことを気にかけてのことだったとわたしは思うのよ」 つまり、彼があの夜私に声をかけて下さったのも、私のことが気になったからということらしい。あの夜、私が泣きそうな顔をして店を出たから……。 そういえば、彼も電話で言っていたっけな。あれって本当のことだったのか……。「――そういえば、副社長の秘書って二人とも女性ですよね? それって問題ないんですか?」 私はそれを疑問に思っていた。他の重役秘書は男女ペアだったり、男性二人だった気がする。女性二人なのは私たち副社長の秘書だけだ。「問題ないわよ、今のところはね。というか副社長はまだ独身だし、別に独身の秘書と職場恋愛になったところで何か問題ある?」「…………ない、ですよね。そりゃ、副社長が既婚者で、秘書と不倫関係にでもなったら問題アリアリでしょうけど」「でしょう? さっきも言ったけど、仕事と私生活のメリハリさえついていれば何の問題もないのよ。だから安心して」「……はい」 そうか、悠巳さんって独身なのか。だったら私も、誰に遠慮することなくアタックしてもいいわけだ。「っていうか、池崎さんはどうなんですか? 秘書課ってキャリアウーマンの花形部署ですし、池崎さん美人だしモテたりしないんですか? 彼氏とか好きな人は?」「残念ながらいないわね。今はわたし、仕事が恋人なの。……あっ、違うわよ!? 別に副社長のことは仕事上のパートナーとしか思ってないから。それ以上でもそれ以下でもないわよ! ……あ」「……? どうしたんですか、池崎さん?」「副社長で思い出したんだけど、この社内に副社長の元カノがいるのよ。秘書課じゃなくて、別の部署なんだけど」「元カノ? どこの部署ですか?」 〝元カノ〟ってまさか、受付嬢じゃないよね? それがもし涼花だったら……、私もう立ち直れないかも……。「まさか受付嬢
「――おはようございます! 今日からこの秘書課へ配属されました、中途採用の緒方藍です。よろしくお願いします」 八時五十分。ICリーダーに社員証をかざして秘書課のオフィスにチェックインした私は、「みなさんに挨拶をして」と秘書課長の大森冴子さん――そういえばこの人も面接官の一人で、私にちょっと意地悪な質問をしていた人だ――に言われ、自己紹介をした。 大森課長は五十代前半のベテランで、今は社長秘書を務めていらっしゃるらしい。 そこへ、私に歩み寄る女性が一人――。彼女は三十代くらいで、この人も確か面接官の一人だった気がする。「わたしは副社長の第一秘書で、池崎千穂です。採用面接の時に会ったわよね? 憶えてる?」「はい、大森課長とご一緒に面接官をしてらしゃいましたよね。その節はありがとうございました」「ちゃんと憶えていてくれて嬉しいわ。今日からわたしと一緒に悠巳副社長のお仕事をサポートしていきましょう。よろしくね」「はい!」 ――秘書課のメンバーは私を含めて二十人。女性の割合が多いけれど男性もいて、年齢層は二十代から五十代まで幅広く所属している感じだ。大森課長と小薗主任、社長の第二秘書(ちなみに男性である)、私たち副社長秘書、専務秘書が二人(こちらは第一秘書が男性)、常務秘書が二人(二人とも男性)、それぞれの本部長(本部は六つある)の秘書が一人ずつ(そのうち男性は二人)。他の人はみんな女性で、他の人のサポートをしているようだ。「緒方さん、秘書の仕事は初めてだと言ってたわよね? わたしが丁寧に教えるから、安心してついてきてね。わたし、新人いじめなんてしないから」「はい、ご指導のほどよろしくお願いします」「――はい、ではみなさん、それぞれの持ち場へ。今日も一日頑張っていき
――それから成南商事での退職手続きも芹澤ホールディングスの入社手続きもすべて無事に完了し、私は初出勤日を迎えた。「――うん、リップの色はこれでいいか。髪の色もいい感じだし、メイクもバッチリ! 今日から心機一転頑張るぞ!」 朝食と着替えを済ませ、自分の部屋でドレッサーの鏡に向かってメイクをしていた私は、上品なローズピンクのリップを塗ると満足して頷いた。 入社が決まってから、私は新しくスーツやインナーのブラウスを何着か新しく購入し、コスメもちょっといいものにバージョンアップした。新しい靴も買ったし、髪も芹澤ホールディングスの社内規則に引っかからない程度の茶色に染めた。〝高校デビュー〟や〝大学デビュー〟ならぬ〝秘書デビュー〟である。 秘書という仕事は華やかなだけではないけれど、地味すぎてもいけない。少々の華は必要なのではないかと考えた結果がこのイメージチェンジだった。 前の会社ではほとんど着ることのなかったスカートタイプのスーツを着て、インナーの七分袖ブラウスのボタンは二個開けて、控えめに小ぶりなイヤリングもつけた。メイクにも華やかさをプラスして、イメージは「色気もあるシゴデキのキャリアウーマン」という感じだ。これはもちろん、悠巳さんに一人の女性として見られたいがためのイメージチェンジである。「……さあ、行こう!」 マンションを出た私はメトロの新宿駅から丸ノ内線に乗り、赤坂見附で銀座線に乗り換えて虎ノ門に着いた。今日から勤める芹澤ホールディングス本社ビルは、ここからだと徒歩五分くらいの距離にある。 ちょうど通勤ラッシュにぶつかったので電車の中はどちらも混んでいたけれど、今日から新天地で働くというワクワク感からそんなことも苦にならなかった。
――芹澤ホールディング本社のビルを出てすぐにスマートフォンの電源を入れると、悠巳さんの携帯番号から電話がかかってきた。私は嬉しいけれど、面接官の一人が面接終了後すぐに応募者の一人に個人的に連絡していいのだろうか? これって不公平じゃないの?「――はい、緒方です。先ほどはどうも」『藍さん、今日は面接、本当にお疲れさまでした。最後はあんなことになってしまって、君も疲れたろう?』「……はい。それって藤河さんのことですよね? 彼女、今日一体何をしに来たんでしょうね」 私は面接中のあれこれを思い出しながら、うんざりと言った。私も立石さんも真面目に転職活動に励んでいるのに、ああいう応募者が一人でもいると何だか真面目にやっているのがバカバカしく思えてくる。『それは僕も同感だな。こちらの質問にも真面目に答えてくれないし、そもそも本気で転職する気があるのかどうかも疑問だ。小薗さんからの報告によると、前職の父親の会社でも女王さま気取りでいたようだしね』「そうみたいですね。彼女はせいぜい、社会の厳しさってものを身をもって思い知った方がいいんですよ」『ははは、藍さんは辛辣だなぁ。でも君のそういうところ、僕はキライじゃないよ。……それはともかく、藤河さんは今回の面接では不合格にするということで、僕たち面接官四人の意見は一致しているから』「……それ、応募者の一人に個人的に漏らして大丈夫なんですか?」『う~ん、やっぱり……マズいかな? でも今回、最終的な決定権は僕にあるからね
「まずは緒方さん、どうぞ」「はい。――立石さんは面接前に少しお話をさせて頂いたのですが、前職でも秘書という仕事を長く務めていらっしゃったようなので、この仕事が大好きで本当に誇りを持っていらっしゃるんだなと思いました。役職に就いた経験はないそうですが、彼ならきっと秘書課長に昇進しても人望に助けられて立派に務められそうだなという印象を抱いております。この面接においても、彼は私にとってのよきライバルだと思っております。――藤河さんは……、失礼を承知で申し上げますが、秘書どころか社会人としても失格ではないかと。まず目上の方に対しての敬意を感じられない、仕事というものを完全になめ切っている。これまで周囲から甘やかされすぎたのでしょうね。秘書という仕事は華やかなだけではないことくらい、未経験の私にだって分かります。よくそんな浮ついた気持ちで応募してきたなというのが彼女に対する率直な感想です。――失礼致しました」「…………なるほど。緒方さん、あなたは鋭い観察眼をお持ちのようだ。将来的に秘書課を束ねる人材として、それは強みになると思います。若干、毒気が混ざっている点は気になりますが……」 私のことを褒めながらも、悠巳さんが苦笑いしている。……マズい、うっかり〝ブラック藍ちゃん〟が顔を出してしまったみたいだ。「申し訳ございません。ついつい毒舌になってしまうところが私の短所なので……」「自覚があるのなら大丈夫です。これから改善していけばいい。ですが……、あなたのおっしゃったことは間違っていないと僕は思います。管理職経験者として、藤河さんに物申したいお気持ちがあったのでしょ
「――では、前職の退職理由と志望動機を伺います。この度、弊社を受けようと思われた理由は何ですか?」 人事部長さんの質問に、私はチラリと悠巳さんの顔を見る。彼は「本当のことをそのまま言えばいい」とメッセージを下さったけれど、本当にそれでいいのかと。彼が小さく頷いたので、私はありのままを話すことにした。「まずは緒方さん、どうぞ」「はい。……私が前職を退職したのは、私自身のメンタルを守るためでした」「……とおっしゃいますと?」「実は少々、個人的なトラブルがございまして、会社に居づらくなったのですが。そんな時に、御社の悠巳副社長からお声をかけて頂いたんです。『つらいのなら、思い切って転職するのもひとつの手なのではないか』と。そして、『副社長の第二秘書が退職して欠員が出たので応募してみないか』と。正直申しますと待遇も申し分なかったですし、これまでのキャリアを捨ててでもぜひ受けたいと思い、応募致しました。悠巳副社長のご恩に報いるために」 トラブルの内容は、ここでは話す必要がないだろう。必要なのは、悠巳さんが直接この採用面接を勧めて下さったという事実だけなのだから。「……なるほど。では、副社長のツテで受けることにしたと、そういう解釈でよろしいですか?」 秘書課長から少し意地悪な質問が飛んできたけれど、これは私がこういう質問にも冷静に答えられるかどうかが見られているのだと私は分かっている。ここで逆上したら私の負けだ。「いえ、違います。私はこのお話をお断りすることもできました。ですが、御社を受けようと決めたのは私の意思ですので、それはツテということにはならないと私は考えております」「あなたの強い意思、理解しました。緒方さん、ありがとうございます。では次に立石さん、お願いします」「わたくしは前職で人員整理がございまして、早期退職を致しました。つまりは会社都合による退職……ということになりますかね。わたくしに落ち度はございませんでした。会社の規模を縮小するとのことでしたので……」 ……うーん、会社都合での退職ってなかなか言いづらいだろうな。本人に悪いところがなくても、人件費削減のために早期退職させられたりとか。立石さんも不本意だっただろうなと思う。「はい、退職理由は理解しました。では、弊社に応募された理由を話して頂けますか?」「転職サイトで拝見致しま







